とにかく書く、頑なに書く

ここ最近、ネットではClubhouseの話で持ちきりですね。

いわゆる音声SNS。人と会うのが少しだけ難しくなった今だからこそ、需要があるのかな。

Clubhouseが招待制のSNSと聞いて、真っ先にmixiを思い出したのは僕だけではないはず。

流行った当時は大学生で、

とにかくたくさん日記を書いて、みんなと日常を共有していたっけ。

たくさんの書き言葉の中に、青春を刻んでいたような感覚でしたね。

そう、書き言葉。

mixiの後にも、流行りに身を任せて様々なSNSを渡り歩いたけれど、

発信する術はずっと「(際限なくカジュアルではあれど)書き言葉」だった。

それを考えると、オンラインコミュニケーションの時代は、また大きく前に進もうとしているんだな、と感じるし、

書き言葉の時代を、存分に生きることができて幸せだったな、とも思う。

「話すこと」とは違って

「書くこと」は時間がかかる。

たくさん書いても、消してしまうことすらある。

でも、書くことにかかった時間は、

書いたものを、書いた自分自身を見つめ直した時間でもある。

その時間は、話すことでは得られにくい。

書き言葉は、話し言葉にスピード感で劣る代わりに、少しだけ人生を贅沢にしてくれるのだ。

だから、僕はまだまだブログを書く。

とにかく書く。頑なに書く。

話すことに夢中になるのもたまにはいいけれど、

書いて伝えることも、同じくらい大事なんじゃないかなと思いませんか?

ところで、Clubhouse始めたんですけど友達になりませんk

もう節分!はやいな!

それでは今日はこの辺で。

仮装通貨

それこそ、ハロウィンだから、というだけの理由で
おちゃらけた格好した諭吉さんとか、
ホラーっぽい宇治平等院鳳凰堂とかのデザインの
お金が流通したらおもしろいのにね〜
うわ!これハロウィン仕様だ!みたいな
(↑まゆげコアラ見つけたテンションで。笑)

そんなハロウィンも騒がしく終わり、
気がつけば11月。
明日は、、、ぶ

文化のブレンブレンドのライヴです!

日進市にある、旧市川家住宅でフリーライヴ。
つまり、無料で楽しめちゃうやつ!
うーんまさに、文化的。

メンバーも張り切っています。

※スタジオ退室10分前の強いフラッシュにご注意ください。

それにしても、急に寒くなりましたね。
お越しになる方は、暖かくしていらしてくださいね〜。

流暢に読ませて。

この一週間で、

浅尾、荒木、岩瀬、3人も!引退だなんて!

と打ちひしがれたのは僕だけではないはず(泣)

そんな引退にまつわる話ということで、

野球とは何の関係もないテーマで一席お付き合いください。

先日、ある若いアーティストが引退を発表して、ネット上でも話題になりました。

その後、引退に関する彼の発言を機に、SNSが大荒れに…!
いわゆる炎上というやつです。

その燃え盛る炎の中、彼が

アーティストにも客選ぶ権利があるんだよ!!!

と宣ったもんだから、火の勢いはさらにまして、消火活動が困難に…

とまぁ、こういう話なんですけれど。

この「アーティストの持っている客を選ぶ権利」について

いやこれ、あって然るべきだよねー!

というのが、僕の見解なのであります。

正確には、権利というか、狙い、でしょうか。

こういう年齢層、性別、収入の人に好かれる音楽を、と
細かく狙いを定めることは何ら間違いじゃないと思うのです。

彼はその狙いと、自分自身に付いてきた人たちの層が合ってないと主張し、
悲しいかな意図せず付いてきてしまった望まないクラスタの人たちのデモを喰らってる、というところなのでしょう。

彼の発言に対する、その方々の反応は冷ややかで
やれファンに謝れとか、トップアーティストはそんなこと言わないとか
いわゆるモグラ叩き状態になっていますが、

僕は全くそうは思わない。

むしろお金とズブズブ仲良くなり過ぎてしまった音楽の世界に、いい石投げt以下略

そもそも音楽家の音楽以外の部分、いわゆる人間性や言動に対して、
評価や批判をするのはファンとして白痴すぎないか?とも感じます。

ただ、大衆向けの音楽ビジネスというのは、ある意味その白痴を拠り所に成立しているところもあって、
なんか悶々としてしまうんですよね。

本来であれば、

このアーティストの音楽、いいよね!

くらいまででちょうどいいと思うのですが。

ほら、SNS上でも、
あ、この人、このアーティストがいないと
ATフィールドが崩壊して人の形を保てなくなってしまう…みたいな人、たまにいるじゃないですか。笑

個人的な感覚で言えば、それはファンではなくて
現実世界では能力的に埋められない精神的な欠陥を
何かを好きになるという行為で埋めようとしている人

なんですよ。

そして悲しいことに、彼らの多くにはその自覚がない。

さらに悲しいことに、そうした人のつぎ込むお金で音楽活動をしているアーティストは、
必然的に彼らを引きはがせなくなってしまうという、負のスパイラル。

音楽とはまるで関係のない部分まで、けじめなく好かれてしまって、本当に必要な音楽的技術の向上とか、新たなアプローチとか、
そうした一歩を踏み出す原動力を損なわれてしまう。

盲目的にアーティストを好きになることって、
そういう可能性を孕んでるんですよね。

いや、その、
批評家とかではないです。笑

おそらく近い将来、技術革新によって
鼻歌を高度なレベルで編曲するプログラムくらいは開発されるでしょう。

そうすると今までアーティスト達がものすごーいお金を使って作っていた音楽が、
いとも簡単に、手間暇かけずにできるようになる。

そうすると、知り合い同士で歌や曲を作りあったりして、
音楽を楽しむ社会は現在よりもミニマムなものになるかと推測されます。

レコード会社や、スポンサーといった
組織から与えられた音楽ではなく、
家族や友達のような、自分自身のつながりから、好きな音楽を探せる時代。

大切な贈り物や、コミュニケーションのツールとして、
自分自身の思いを、誰もが歌にできるミュージカルのような時代。

素晴らしくないですか?

僕はそんな時代を見届けてから死にたい。

でも、そんなふうになっちゃうと、
儲からなくなってしまう人がわんさか出てきてしまうので、
時間はかかる、というか、かけなくちゃいけないとも思うんですよね。

ゆるやかーに、水面下で、バレないように、
この話にご賛同いただける方みんなで進めましょう。笑

いや、その、
活動家とかではないです。笑
音楽を、もうちょっとだけ、みんなのものにしたいだけ。
みなさんのご意見も、ぜひお聞かせくださいね。

スクラップアンドビルド

いやー、秋がやってくると
思わず聞いてしまうよね。

銀色の道 / ダークダックス

(知らないあなたは今すぐ検索だ!)

特に秋に関係があるわけではないけど、
帰り道に聴きこんでしまうよね〜みんなもそうだよね〜

今日の貴乃花の記者会見を、
帰りの電車でわりとがっつり見てしまって、
他人のことなのに、もやもやしている。笑

情報化社会に慣れた人たちなら、
7割くらい、誰が悪いことしているのかは見えているのに、
知ってる人は何も言わない。

そして、正しい人だけが去っていく。

お相撲はたまに観に行っていたけど、
きっともうしばらくは行かない。

関係ないけど、タバコをやめて半年くらいが経つ。

もともと、カッコいいなと思って吸い始めたんだけど
タバコの吸い殻が道に捨ててあるのはすごく嫌いで。

俺は彼らとは違うんだ!と早々に限定販売の電子タバコに手をつけたけど

それが街中に普及した途端、
今度はそのカートリッジが道端に捨てられているのが目につくようになって、

やめた。もう吸うもんか。

自分の好きなことや好きなものに関わっている人が、みんな

マナーやモラルをしっかりと守って、

爽やかで民度があって、

利権や金に溺れていなくて、

人間的にある程度完成されていて、

そんな人ばっかりだといいのに。
そうじゃないと、好きなものも簡単に嫌いになっちゃう。

というのが、
20代最後の、僕のわがままなのかもしれない。

自分でも、こういうところが好きだったり嫌いだったりで、よく分からないけど。

丸くなるまで、もうちょっとだけ、大目に見てあげてください。笑

鶴を折る、ということ

千羽鶴」という歌を知ったのは2年ほど前のこと。

僕自身、長崎には訪れたことはないけれど
初めて聞いたとき、詞や曲がとても心に染みて、
だけど同時に、理由の分からない引っかかりを感じた。

それから月日が経ち、
先日、初めて広島へ。

平和記念公園に飾られた、幾多の千羽鶴を拝見して、
ようやく、その引っかかりの謎が解けた。

要は

僕らは鶴を折り、平和を祈ることしかできないのか。

ということだ。

世の中には、人並み外れた技能を持っていたり
地位や名誉、財力のあったりする人が、
案外たくさんいるように思う。

その人たちが、本当に心の底から平和を願うのであれば、
自らのもっているものを総動員して、
鶴を折る行為よりもより意味を感じさせる行動をとるはずだ。

でも、きっと、
僕があの公園で見た鶴の中には、
そうした行動ができるはずの人の「思い」だけが、
鶴を折ったことで昇華されているという実態もあるのではないか。

もしそうだとしたら、これは何とも、もったいない。

加えて今日、SNSでも多く見た「日々の平和に感謝し、これが続くように祈ろう」というフレーズ。

素敵だけれど、書いた人の多くは、そこで平和への思いを完結させてしまっている。

そうではなくて、

近代史を多角的に学び、自分の意見をもち、
争いに至る人の心の動きを深く分析し、
そばにいる人との関係を見つめ直す。

エビデンス無しに何でも批判したがるクラスタはさておき、
この国の人なら、ちょっと考えればこれくらいのことはできるんじゃないだろうか。

冒頭の「千羽鶴」の詞では、これでもかというくらい「鶴を折る」のだけれど、
その言葉を額面通り受け取るのではなく
どういう意味が込められているのかじっくり考えていくことが
僕らの世代の宿題なのかもしれない。

平成最後の夏だから

そんなことを言って、何かしようとしても、
中途半端になることは目に見えている。

本当に大切なのは、最後だからという理由に縛られることなく、
日々訪れる「夏」を確実に掴んで心に焼き付けることだ。

幸いなことに僕らの世代は、子どもの頃から

夏休みはやっぱり短い

とか、

夏休みは計画立てよう

などと言った

大事なフレーズを大江千里に叩き込まれている。

夏の儚さを、インプリンティングされた僕らにとって、
平成最後の夏、という謳い文句はまさに笑止千万だ。

危機感を煽るようなフレーズに踊らされて、
さして必要性のない経済活動に加担する大人たちを、
僕らは彼らが考える以上に、冷静に見ている。

本当は、この話にもう少し突っ込んで、

①個々人に内在する価値感が現実とリンクする、「一億総競り社会」の到来

②健康や福祉に絡んだ情報商材を扱う人たちが、SNSで「儲けたいのでお金ください」と素直に言わないことに対するじれったさ

と結びつけて熱く考える予定だったんですが、

お腹すいたからやめる。

いま、

めっちゃ

カルボナーラ食べたい。

石を投げられない人たちの唄

何の授業だったっけな。
「電車に、優先席は必要か?」というテーマで
子どもの頃、議論したことがあった。

でもそのとき、

そもそも、誰かが立って乗ることを前提に作られた交通機関って、おかしくないのだろうか。

と思って、
その疑問は、今も疑問のままだったりする。

ので、
勝手にそれを「優先席課題」と名付けた。今。笑

この暑さで、
日本全国大変なことになっていて、

でも暑すぎて、みんなの頭の中が
この優先席課題みたいになってやしないだろうか。なんて。

本当に悲しいことに、幼い子どもまで命を落とすこととなってしまったけど、
その原因って、本当に学校の危機管理体制だけの問題なのだろうか。

そもそも、学校にエアコンがつかないのはなぜ?
この暑さ、きっと教職員も子どもも、つけたくてしょうがないでしょう。

つけることを良しとしなかったのは、なぜ?
誰が、それを、どこで決めたの?
そんな大事なことを決める人を、選んだのは誰?

ここまで考えると、
誰もが誰かを叩くことをしたくなくなる。

教育の諸問題は、
突き詰めていくとたいてい教育の世界を飛び出し、
僕たちに疑問を呈する形で帰ってくる。

無論、飛び出させたくない人たちもいるだろうし、
自分とは直接関係がないと、思いたい人もいるのだろう。

だけど、もうちょっとその辺、
突き詰めて考える人が増えたら、
世の中もう少し豊かになると思うんですよね。

今からリハです。
現場からは以上です。