仕事が始まって、年明け特有の忙しさがふっと落ち着くと、
だいたい決まってあんじろうさんのことを思い出す。
あんじろうさん。
説明しよう、あんじろうさんとは、
僕が高校のときから足繁く通っていた個人スタジオのオーナーである。
ちなみに、あんじろうさんという名は本名ではない。
でも、みんながそう呼ぶし、
スタジオの名前まで「あんじろうず」だったもんだから、
あんじろうさんはどこまでいってもあんじろうさんなのであった。
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僕は高校への入学と同時に、フォークソング部に加入し、
このスタジオに入り浸ることになる。
あんじろうさんはときどきミーティングルームに登場し、
音楽の薀蓄を余すところなく僕らに吹き込んでいった。
薀蓄だけではなく、幾多の音源も。
まだitunesも駆け出しだったから、その頃はCDという媒体で。
いったい何枚焼いてもらったことか。笑
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時が過ぎ、大学生になってからも、
僕はスタジオあんじろうずに通い詰めた。
大学の音楽サークルには、スティーリー・ダンやリトル・フィートやダニー・ハサウェイの話が通じる人がなかなかいなかったからだ。
結局僕はあんじろうさんと音楽の話を突き詰める日々を繰り返した。
そして、一緒にバンドを組んだりもした。
当時の僕のキーボードスキルは、今と比べるとおっぺけぺーなものだったけれど、
彼のご縁にあやかって、ラジオで曲を流してもらったり、大きなライヴハウスに出させてもらったりして、
普通の大学生では味わえないような贅沢音楽ライフを謳歌することができた。
また、彼の音響やイベントの仕事にお手伝いとしてついていくこともあった。
音楽は、誰かの人生と結びついて、よりその価値を高めるのだということを肌で感じたり、
現地で美味いものをいただくという社会勉強もさせていただいた。
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そしていつの間にか、僕は社会人になる。
就職してからも、まるで里帰りのように、
年末年始とお盆はスタジオに顔を出す習慣がついていた。
その頃になると、あんじろうさんも以前ほど活発ではなくなっていたけれど、
訪ねる度に、本宅の方に招いてくれて、やっぱり音楽の話。
十年来の付き合いになっても、髪型と体型以外は全然変わるそぶりを見せなかった。
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だから、二年前の年明け、突然の訃報が入ったときも、
また音楽の話をするようなつもりで、僕はあんじろうずへ駆けつけたのだ。
でも、彼は静かに眠っていて、そのまま口を開くことはなかった。
あんなにおしゃべりだったのに。
でも、泣いたり悲しんだりする余裕はなかった。
彼を弔う、というか送り出すための、演奏の役を仰せつかったからだ。
最後の最後まで、こういうとこ、ホントあんじろうさんだよなぁと思いながら、
目の前の曲を、ひとつひとつ、全力で弾ききった。
本当はそのときに、たくさん伝えたかったことがあったけれど、
演奏に集中していて、それどころではなかった。
でも、きっとあんじろうさんも、そんな僕を分かってくれただろう。
気がついたら、お葬式は終わっていて、
ぼーっとした気持ちで、家に帰ったのを覚えている。
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あんじろうさんの、それはそれはたくさんの言葉の中で、特に印象に残っているのは、
俺を踏み台にして、越えていけ
というフレーズ。
音楽における師弟関係は、師に対する弟子の忖度を生みやすく、
それが音楽(特にポピュラーミュージック)文化の価値向上を阻んでいる、というのが僕の意見だが、
あんじろうさんの言動には、誰かを束縛したり、可能性を狭めたりするようなものは一切感じられなかった。
なんというか、伸びていこうとする苗に、ひたすら水をやり続け、
それを楽しんでいるようなイメージだ。
その姿にどれだけ救われただろう、
そしてどれだけ、音楽を一緒に楽しんでもらえただろう。
そんなあんじろうさんを、踏み台になんてできるわけなかった。
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あれから2年が経ち、僕は今も音楽活動を続けている。
彼に教えてもらったブルースは少しだけ上手くなったし、
大好きなバンドも軌道に乗り始めた。
結婚もしたし、仕事だって辞めずに続けている。
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過去のことを振り返って悔やんだり嘆いたりするのは自分のスタンスに反するけれど、
この土日くらいはゆっくりじっくり昔のことを思い出して、
感謝の気持ちを、呼び起こしたいと思う。
本当に、ありがとう、あんじろうさん。
僕は僕の、答えを見つけます。