「千羽鶴」という歌を知ったのは2年ほど前のこと。
僕自身、長崎には訪れたことはないけれど
初めて聞いたとき、詞や曲がとても心に染みて、
だけど同時に、理由の分からない引っかかりを感じた。
それから月日が経ち、
先日、初めて広島へ。
平和記念公園に飾られた、幾多の千羽鶴を拝見して、
ようやく、その引っかかりの謎が解けた。
要は
僕らは鶴を折り、平和を祈ることしかできないのか。
ということだ。
世の中には、人並み外れた技能を持っていたり
地位や名誉、財力のあったりする人が、
案外たくさんいるように思う。
その人たちが、本当に心の底から平和を願うのであれば、
自らのもっているものを総動員して、
鶴を折る行為よりもより意味を感じさせる行動をとるはずだ。
でも、きっと、
僕があの公園で見た鶴の中には、
そうした行動ができるはずの人の「思い」だけが、
鶴を折ったことで昇華されているという実態もあるのではないか。
もしそうだとしたら、これは何とも、もったいない。
加えて今日、SNSでも多く見た「日々の平和に感謝し、これが続くように祈ろう」というフレーズ。
素敵だけれど、書いた人の多くは、そこで平和への思いを完結させてしまっている。
そうではなくて、
近代史を多角的に学び、自分の意見をもち、
争いに至る人の心の動きを深く分析し、
そばにいる人との関係を見つめ直す。
エビデンス無しに何でも批判したがるクラスタはさておき、
この国の人なら、ちょっと考えればこれくらいのことはできるんじゃないだろうか。
。
。
冒頭の「千羽鶴」の詞では、これでもかというくらい「鶴を折る」のだけれど、
その言葉を額面通り受け取るのではなく
どういう意味が込められているのかじっくり考えていくことが
僕らの世代の宿題なのかもしれない。